カネヨリマサル「ひらりとパーキー」考察|夏が終わってしまったようだ
この曲を初めて聴いた時の衝撃は今もなお、鮮明に記憶にある。
友達とドライブをしていた車のなかで、「最近聴いているバンドの曲がある」と紹介をされ、何の気なしに耳にした。
特徴的な高い声質と小気味良い曲調から、思わず「チャットモンチー復活したの!?」と声に出してしまったが、どうやら違うらしい。
確かに、よく聴くとチャットのボーカルである「りっちゃん」と似ているものの、より感情に語りかけるような人間味を感じられる。
「カネヨリマサルってバンドの曲、らしい…」
最近聴いているのに「らしい」とはどういうことなのか、とやや疑問に感じたが、それよりも気になったことがある。
「バンド名、どうなってるの?」
スマホを見ると、どうやら間違っていないようだ。
だが、確かにこのバンド名では「らしい」と言ってしまう気持ちもわかる。
しかし、最初に感じたバンド名への若干の不信感とは裏腹に、筆者、そしてその友達が「カネヨリ」にハマるのに時間はかからなかった。
気がついたら、「心を叫べツアー」にて人生で初めて訪れた渋谷クアトロで、アラサーメンズ2人が挙動不審になりながらも、最高の雰囲気のなかで「ひらパー」を生で聴き、その帰りの電車でファンクラブに入会し、ワンマンツアーの抽選に応募していた(そして見事に当選した)。
そう、この曲は、筆者をカネヨリマサルに沼らせてくれた曲であり、数多ある神曲のなかでも特別な位置を占める曲なのである。
なぜ、この曲がここまで筆者の心を踊らせたのか。
理由は2つある。
まず1つ目が、曲の随所からチャットモンチーを感じずにはいられなかったからだ。
自己紹介が遅れたが、筆者は執筆時の2024年10月下旬現在、32歳のアラサーである。
この年齢でフレッシュな雰囲気がみなぎる渋谷クアトロに凸るのは少々勇気がいったが、対バンである「Mr.ふぉるて」の演奏が始まる直前、実はチャットモンチーの「湯気」がBGMとして流れていた。
そして筆者の遠い昔の青春時代、それこそ『15歳のあの夏』の頃であるが、チャットモンチーをガラケーで聴きまくっていた。
最推しは「8cmのピンヒール」だが、青春時代を強烈に思い起こさせるのは「風吹けば恋」だろう。
夏の爽やかさを全開に「恋」へと全力で邁進する少女の躍動感を楽曲で表現しているあの様は、他のアーティスト、バンドには出せない「青春の力強さ」を感じさせてくれる。
そして、「カネヨリ」はチャットモンチーのコピーバンドをしていたこともあるようで、チャットらしさを感じられるのも納得である。
当時の心踊るあの感覚を「ひらパー」で追体験できたことが、筆者の心を大いに揺さぶった。
これが1つ目の理由である。
一方、2つ目の理由は1つ目の理由とは対照的である。
「カネヨリ」の面々はあのライブでの躍動感とは裏腹に、全体的に大人びた雰囲気を見せていて、事実、年齢は「(ギリ)筆者と同世代」といえるような、いわゆる「アラサー」に入る。
そして、この「ひらパー」は大人になった自分が、『15歳の頃のわたし』を俯瞰する楽曲である。
このようなスタンスが、同世代である筆者の目線とかぶる部分があり、感情移入がしやすかった。
そして、「カネヨリ」の楽曲の多くはこの「大人になったわたしが青春を振り返る」というスタンスをとっているため、実は同世代のアラサー世代とマッチしやすいのだ。
逆に、この「ガールズバンドなのに大人びた感覚」こそが、「ヤング」で「ユース」な若い世代の心を惹きつけているという側面もあるだろう。
話が少し逸れた。
以上2つの理由から、筆者は「ひらパー」が大好きである。
そして、肝心の曲の考察については、あいにく筆者は「くるり」「京阪電車」「夜に浮かぶ観覧車」楽曲に何度も出てくるこれらをよく知らないので、あまり深くまで切り込んでいくのは難しいだろう(関西に住んだことがないことをこれほど悔やむことがあるとは思わなかった)。
ここでは、「ひらパー」のメインテーマである「夏の終わり」について、フォーカスを当てていくことにする。
夏の終わり、つまり9月から10月くらいが時期としてあげられるであろうが、『15歳のあの夏』の終わりに、筆者は失恋をしている。
頭が良く、落ち着いた優等生的な女の子で、筆者とは対極にあるような子だった。
その子に関心を持たれようと、そして同じ高校に行こうと、必死に勉強をした。
だが、最も肝心な一歩をなかなか踏み出せなかった。
しかし、意を決して、ガラケーのメールで人生で初めての告白をした。
少し考える時間が欲しいとのことだったが、その後普通にフラれた。
そして、それから16年後の31歳の同じ時期。
3年付き合い、結婚を意識し、同棲の話が出ていた頃合いで、当時の彼女から突然、別れ話を切り出され、普通にフラれた。
恋愛に熱を入れてしまう筆者には、どちらの失恋もあまりにも『あっけなすぎた』。
そして、失恋のさみしさとは裏腹に、夏は『あっけなく』終わり、気がつけば秋になっているのである。
このように、筆者は大人ではなかった『15歳のあの夏』にも、大人になった31歳のあの夏にも、同じような『夏が終わってしまうようなさみしさ』を感じている。
いや、正確に言えば「夏が終わってしまったさみしさ」なのか。
いずれにせよ、どうやら、少なくとも筆者にとっては、『夏が終わってしまうようなさみしさ』は、『大人になったら忘れてしまう』ものではないらしい。
何歳になっても失恋はさみしいし、夏が終わってしまうこともまた、同様にさみしく、『忘れられない』のである。
そして、『15歳のあの夏の私と何も変わっていない』ことを、「変わっていない」と安心する自分がいる一方で、「変われていない」と不安になる自分もいる。
「ひらりとパーキー」の『パーキー』とは、
Perky(形):元気な、活発な、明るい
といった意味を持つ単語らしい。
「変わっていない」ことに安心しながらも、「変われていない」と不安になる、そんな曖昧で大人になりきれない自分でも、大人の余裕を『ひらりと』見せながら、明るく『パーキー』に振る舞い、こんな記事を書いているのである。
奇しくも、これを書いている今は、32歳の秋である。
『15歳のあの夏』から17年が経ち、31歳のあの夏からは1年が経った。
最近は残暑が残りやすいと言っても、さすがにもう夏らしい、心を良くも悪くも刺激するような暑さや『夏の匂い』は感じられない。
そして、「結婚するんだろうな」と思っていながら、あまりにも『あっけなく』終わってしまった『あなた』のことを『そっと思い出す』。
冬が近づいてきたことを知らせる冷たい風を受けて、『15歳のあの夏』や31歳のあの夏と同じように、今年も、こう呟かずにはいられない。
『夏が終わってしまったようだ』
と。